昭和46年09月16日 朝の御理解



 御理解 第4節
  「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世にでたのである。神からも氏子からも両方の恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折りには、天地金乃神というにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 金光大神あって天地金乃神のおかげを受けられるようになった、金光大神の御出現の前というなら百年前と申しましょうか、それまでは、天地金乃神様のおかげを受けていなかったかというとやはり受けておったけれども、それは、それを知らなかったと言う事なんです。金光大神あってはじめて、天地金乃神さまのおかげを受けておったと言う事が分ると言う事です。神からも氏子からも両方からの恩人と言っておられます。
 神からも氏子からも両方からの恩人はこのかた金光大神とおっしゃる、で天地金乃神様はこの世が始まって以来、人間というものがこの世にあるようになつて、この世に生存するようになって以来この方、天地金乃神さまのおかげを受けてきたことです何千年とも、何億年ともわかりませんけれども、天地金乃神さまのおかげを受けなければいっそ立ち行かんである。
 それを金光大神の御出現によって、はっきりと天地金乃神様のおかげと言う事が分る様になったのです、そこが分つたからこそ、ここを分らせてくれたからこそ、金光大神に一礼申すと言う事になられたんぢゃなかろうかと、そこんところのおかげが分ったから神からも恩人と言う事になられたのである。ですからその根本のところです、天地の親神さまが、神からも金光大神は恩人であるとおおせられる、その根本のところ、実をいうたら、教祖金光大神御出現のその前の前からおかげを受けておった。
 御恩恵に浴しておった、その天地金乃神様の、おかげを受けられなければ、これは人間だけのことではありません、もう生きとし生ける一切のものが、天地金乃神様の生かさねばおかん、というそういう働きを、幸せにせねばおかんという神様の働きを以て私ども人間氏子の上に臨んで下さったんだけれども、それを知らなかった。それを知らせて下さったのが金光大神、そこで私どもがただ金光様のお取次ぎを頂いて病気が治ったとか、災難がよけられたとか、人間関係の上においておかげを受けたとかと。
 言う様なおかげを受けられるようになったとかいうのは、枝であり葉である。だからそこが頂けるようになさんからというて、お礼を申し上げるとか、喜んでおるとかいうのは、神からも氏子からも両方からの恩人ということにはならない。根本的なところが分らせて頂いていうならば、今日このようにお生かしのおかげを頂いておると言う事。そのこと自体がおかげの根本であります、だからそこのところが分るから、神恩報謝の生活が出来るのであります。
 今日も目覚ましのおかげを頂いて有りがたしと例えば、咳きがでろうが、熱があろうが、痛もうが痒かろうが、それは生きておる印であると、分らせて貰う時です。もう何よりも素晴らしい大きな御恩恵に浴しておるのであり、おかげを頂いておると言う事、ここん所が分るから、日々が有難い神恩報謝の生活が出来る、その日々の神恩報謝のおかげ、いわゆる感謝の心、喜びの心、その心に病気も癒えるであろう、経済も豊かになるであろう、人間関係もまず、円満になるだろうと言う事になるのです。
 だからそういうおかげはもう枝葉なんだ、神からも氏子からも両方からの恩人と神様がおおせられておるのは、私どもがそこが分るからなんです、神からも恩人と金光大神は称えられた訳であります。だから私共はそこが分らなければ、神様はだから喜んで下さらないと言う事、それはもう今日は商売繁盛のお願いをしとりましたら、おかげを頂きましたというてもです、神様は本当の意味においては、喜んででは下さらんという。
 おかげで医者が見放しておった病人がおかげで助かりましたというだけでは、そういうおかげではない、昨日本部からのパンフレツトに教祖さまのお歌が一番始めにのっとります、「賜りし命ありてけふも目覚めたりめざめしことは有難きかな」とあります。玉割りし命とは賜るという字が書いてあります命を賜ったという賜りしそれを賜るとたりし命あるありて今日も目覚めたり、めざめしことは有難きかな、ここなんです、ここがわかればよいのです。
 私共は金光様の御信心はね、ここがわかればよいのです、それは勿論頭で分る事はありませんよ、命がそれを感ずるのです命が。賜りし命ありありて今日も目覚めたり、命を賜っておればこそ今日も目覚めたというのである、いわゆる神様のおかげを頂いて今日も目覚めたと言う事なのである。目覚めしことは有難きかなと、ここのところがです、なるほどそう言われればそうですという程度の分かり方ではなくて、この命全体が、それを感ずるというところ。
 金光大神はねそこの所を分らして下さるために、出現されたというてもよい訳です。けれども私どもは何かお願いして、特別のおかげを頂いて何か奇跡的なおかげ頂いて自分の思うようになって、おかげは頂いて有難い金光様。成程それも間違いではないのですから良いのです。けれどもそういうおかげならば、必ず金光様でなくつても何様だって、やはり受けてきてますよ、もう昔からいろんな仏様やら神様がござるのですから。
 お観音様でも、お地蔵さまでもよい、何教でもよいわけなんです、おかげを受けるというのは、金光様がいわば、私どもに分らせてもろうた、そのことを天地の親神様が喜びなさる。この方金光大神あってここんところがわかってくれたと言う事は、お前のおかげでと例えば天地の親神様が神が金光大神に一礼申すと仰っておられる。ただ金光大神のお取次ぎによって病気が治るようになった、金光大神のお取次ぎに依って商売が繁盛するようになった、そういうおかげも受けられるようになっことも事実である。
 けれどもそれならば、天地乃親神様が金光大神に、お礼を申されるほどしのことではないのです、だからそういうおかげであったのではです、今までも金光教以外でもあったでしょうし、御利益を受けるという意味だけだったら、天地の親神様が一番分かってもらいたい。それは氏子に恩被せようというのじゃないです。私のおかげでみんなが生きておるのだぞというてそれで恩きせられるのぢゃないけれどもです、そこの恩が恩とわかり神の大恩がわかればと仰るところ、そこの恩がわかればです。
 もう自づと神恩奉謝の生活が出来るのです。あれを見ても有難い、これを聞いても有難い、すべてが神愛だと分るのです。分るから心から喜びの生活が出来るのです。その喜びにです人間の幸せに必要な一切のものが伴のうてくる、おかげが受けられるのであって、根本のところそこなのです。合楽にお参りする様になったら商売が繁盛する様になったというのは枝であり葉なんです。それが有難いといっておる間は金光様の信心が本当の有難いとわかったとはいえないのです。
 天地乃親神様が金光大神に御礼を申される程しの事ではないのです。そこで道のおしえの大綱、御神訓の二番目のところ、「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ わが身は神徳の中に生かされてあり」、どうでもやはり信心をいわゆる真の信心をわからせて頂くということに先ず焦点をおかなければ分かりません。広き真の大道がわからん、理窟でそれがわかるのではない、いわゆる生命がそれを感ずるのである。神徳の中に生かされてあることをその神徳の中にある、昨日の御理解でしたね。
 昨日あんなふうに表現して頂いたのははじめてでしたね。御神徳とは神様の御恩恵、それが御神徳だと、神の恵み、御神徳、一切合切が神様の御恩徳、御神徳の中だということです。それにはね先ず、疑いの雲を払はねばならない、疑いをはなれなければわからない、疑いを放れなければ真の道を見ることも知ることも出来んのである。そうゆう御神徳の中に生かされてある私ども。
 これはねもう金光様の御信心をするともうお話しはどれ程頂くか分らない程に頂くのですよね。けれども私は今日初めて頂いとる訳ですが、神からも氏子からも双方からの恩人とおっしゃる。この氏子からの恩人と言う事は分りますよね皆さん。金光様のおかげで日々のおかげを頂いておるのですから、本当に私共がおかげ頂かれるのは、金光様あっての事、それを煎じ詰めて参りますと、親先生のおかげでと言う事になるのです。
 親先生が頂かれた金光大神、いわゆる金光大神のお手代わりして下さる親先生の信心に依って日々のおかげを受けておるですから、親先生有り難うございますと言うただけでおかげが頂けるとか、親先生助けて下さいといえば助かるとか、最後のところにあるでしょう、天地金乃神というに及ばん金光大神助けてくれと言う事になるのです。そこでまた、そのことをいいますと、金光大神助けてくれというに及ばん、親先生助けてくれといえばおかげを授けてやるという。こう言う事になってくるのです。
 これは一貫したものなのだからです。だからそういうおかげを日々お互いがおかげを頂いておる訳なのです。ですから親先生のおかげで私どもがありますというわけです。だからそこがわかっただけでもたいした事だし、そこが感じられるだけでも大変なこと、ところがどうでしょう、親先生が亡くなったら、二代やら三代やらおかげぢゃないという感じになってくるのですよ。だから信心が薄うなってくるわけです。私はここんところを頂いてはあここだなと思いますね。
 神からも恩人とおっしゃっとるところ、金光大神は神からも恩人だと、だからそうゆうおかげだったら本当のいわばおかげにならんと。けれども神からも恩人とおっしやるほどしのことをどうして天地の親神さまがこの方金光大神あって神が世にでたというて喜んでおられ、または御礼をいうておられるかと言う事なんです。いうなら天地金之神のおかげで皆が生きとし生きるものがお生かしのおかげを頂く、いや実をいうたら、いうなら永世、死んだ先でもお生かしのおかげを頂かれる道なのである。
 御霊の世界に入って行っても生き生きとした安心の御霊のおかげを生き通しに生きて行ける道である。金光教は永世生き通しの道だと教祖は仰っとられます、ですからそういうところがです、天地の親神様が金光さまのお話しを聞いて始めて分りました、あなたのおかげならばこそ、今日こうやっておかげを受けておりますと、私共が御礼をいうその御礼を聞いて神様が喜びなさるという単的なものではない。
 単的というのは、簡単の単ですね複とか単とか申しましょう、複式とか単式とかそういう意味の単です、天地の親神様がです。私のおかげを頂いて私のおかげで皆が生きておるだぞとわからせるだけなら、これは神様がいくらか恩擬せござる、感じでしょう。けどもそこがわかることに依って人間幸せのすべてが恵まれるんだ与えられるだというここんところはもう複になってくる。
 神様が自分が恩きせようとか、おれのおかげだと言う事をいうのじゃない、本当いうと、煎じつめると人間氏子が幸せになると言う事なのです、人間氏子が幸せになることを喜んで下さる。だからお取次ぎを頂いて商売繁盛のおかげを頂きました、病気が治りましたというて、よかろうごとあるけども、それはしかし枝葉なのです、同じようであって同じでない、根本の所がいわゆる分らせて頂いて、それはただお取次ぎを頂いておかげ頂いて有難いというのは、これは単の単式です。
 けれども根本的におかげを頂かせてもろて、今日お生かしのおかげ頂いておる。だからこそ眼がさめた事自体が有り難いのである。熱があるというても咳が出るというても、それは生きておる印だと思うから、その咳に対しても有り難いと言う事が、御礼が申し上げられ、熱があってもそれは生きておる印だ、これは熱とか咳だけではありません。私どもがいっておる難儀というてもです、その難儀を感じられると言う事、その難儀そのものがです、生きておる印だからこそです。
 そこのところがわからせて頂く信心というのです。そこでそうゆう信心をわからせて頂くためには、どういう信心をしたらよいかということになるわけです。心が命が生きる印を恩報謝の生活、奉仕の生活が出来る。私どもここのところを本当に繰り返し、この四節のところをですね、金光大神様のお取り次ぎでいろいろなおかげを受けられる様になったと、だから金光大神のおかげでといいよったばってん、これは天地の親神様が金光大神に御礼をおっしゃられる程ではないこと。
 天地の親神様が金光大神此方があって神も助かる様になっと仰るのは私ども人間氏子がです。その根本的なところを私ども心からそれを感じて、御礼を申し上げる生活に入ることがわかるということ。いうならば日々お繰り合わせの中におかげを頂いておるというた様なおかげのもう一つ向こうのおかげです。そのおかげを実感出来るためにどの様な修行させて頂くかということになる。
私ども日々お繰り合わせを頂くためにお願いするためにお参りしたり修行したりという感じが多いのですよね、いままでそういう頂きかたしとったですね、私どももけど今日はそこんところをですね。それでは天地の親神様は本当の意味においては満足して下さらない、それならば金光大神助けてくれといえば、助かることがでけるというおかげに終わって仕舞う、そしてなら親先生がおられなくなったらもう、今度は思いというものは薄うなっていく。
 そこで私ども金光様の信心、金光大神のお取次ぎによってわからなければならん、ところは、もう誰の時代になってもいつの時代なっても、これだけは絶対なもの、間違いのないもの、それは天地の親神様の御恩恵を受けなければ、私どもが立ち行かないという事実、それを簡単に、それはどのようなことかと説明すると、生かされてあると言う事、そのことに心からの喜びが感じられると言う事。
 そこに教祖さまの、御読みになった歌の「賜いし命なるありて今日もめざめたり」ここがわからせて貰うこと、賜いし命なるありて今日もめざめたりめざめしことは有難きかな」、ありがたきかなと、だから皆さんどうでも一つめざましのおかげを頂いて、ああ今日もおかげ頂いて有難いと、御礼のいえれるところまで、信心修行をせねばいけないことがわかります。これが本当に分らして頂いたらですよ、一切すべての人間が幸せに必要であるというおかげが、枝葉のようについてくる根本の根がわかる。
 花も咲くでしょう葉もしこっていくでしょう、枝葉は必ず栄えて行くでしょう。痛ければ痛いという、痒ければ痒いといい。目覚ましのおかげ、そのような素晴らしいおかげ頂いとっても、ああ今日も、もう起きらんならんと、今日もまたあげな苦労せなならんと。今日もまたあげな仕事をせんならんというた様な目ざましのおかげを頂いた事が、不足のもとになる様なことは無いだろうか、目ざましのおかげを頂いて。直感してあぁ今日もお生かしのおかげ頂いとったと思える程しのおかげ。
 そこんところを分らせて頂くために、お互いが本気でどの様な場合であっても疑いを放れなければいけない。疑いをとらなければいけない。広き真の大道が分らない、わが身は神徳の中に生かされてあることが分らない。わが身は神徳の中に生かされてあるということは、神様の御神徳とは御恩恵、神様のおめぐみ、その神様のおめぐみの中にあることがわかるから、その御恵みを受けることが出来るのである。
 その御恵みというのは信者氏子といわれる特別のおかげでしょうね。商売なら繁盛するでしょう。病人なら病気が癒えるでしょう。そうゆうおかげにつながる程しの事なのですそこで私は今日を境にですね、本当に生かされて生きておることを頂くために、もっともっと実感できる、生命がそれを感じられる程しのおかげを頂く為に、これからの信心修行というか、わからして頂くことをそこに焦点を置いて、分らせて頂かねばならんと言う事を今日はわからせて頂いた。
 だから今日はこの御理解は今も分れと言う事ぢゃありません。これから段々そこんところにあー有り難いおかげ頂きましたと言いよるけども、自分は枝葉のところを有り難うございますと言いよるんだと悟って、まだまだ根本的なところがわかっているのぢゃないというところを極めて信心のけいこをさして頂く内に、いつの間にか眼がさめた。お礼がいえれるという状態になって行けれるそこを目指さなければいかん。そこを焦点にしなければならないと言う事を頂いたわけですね。
      どうぞ。